二宮神社 式年大祭(船橋市三山)
千葉県内には、古い神事を伝える大がかりなお祭りがあります。香取神宮の式年神幸祭や、上総一ノ宮玉前神社の例大祭、東庄町東大社の式年大神幸祭などです。どれも半島県らしく、海を生命のルーツとしてあがめる神事をともなっています。
11月2日、千葉県船橋市三山にある「二宮神社」で6年に一度、丑年と未年におこなわれる「式年大祭」が執行されました。この祭礼にも磯出式といわれる浜辺での安産祈願の神事がふくまれています。
いつまでも、いつの代までも、歴史あるお祭りが続きますように。そして、生命の神秘を語るにふさわしい、美しい海でありますように。
そんな願いを込めて、二宮神社式年大祭の様子をご紹介いたします。
このお祭りの縁起について少しお話ししておきましょう。
今をさかのぼること564年前、1445年(文安二年)千葉・馬加(まくわり)城主、千葉康胤(やすたね)が始めた祭礼です。
康胤(やすたね)は、懐妊した妻が、11ヶ月を過ぎても出産の気配がないのを心配して、近隣の神社に安産の加持祈祷をおこなわせました。まもなく無事、男の子が産まれ、三山の二宮神社で盛大な安産御礼の祭礼を催したのが「二宮神社式年大祭」のはじまりといわれています。
今も続く二宮神社での神揃(かみそろい)と幕張での磯出式は、それぞれ安産御礼と安産祈願の意味を持っています。二宮の「二」は、もともと天と地、陰と陽、男と女をあらわしているといわれていて、子宝、安産に霊験ありと伝えられています。今回の祭礼でも、混み合う境内のそこここで妊婦さんをお見受けしました。
二宮神社でおこなわれる式年大祭には、現代の自治体名で、船橋市、習志野市、千葉市、そして八千代市の4市から、合計8つの神社が参加します。
二宮神社を含む9つの神社は、二宮を父とする家族になっていて、6年に一度、家族が集うという意味合いを持っているのです。
私たちがこのお祭りを知るようになったのは、今から18年前のこと。前々々回の祭礼執行の年(1997年)でした。
二宮神社式年大祭に渡御(とぎょ)する高津比咩(ひめ)神社の祭礼実行委員会から祭礼衣装の制作を依頼されたのです。私たちにとっても初めての経験。見よう見まねで取引先をまわり、何とか無事にお支度のご用をつとめさせていただきました。
祭礼の意味も歴史も何も知らずに臨んだ前回。これではいけないと、少しずつ勉強をさせていただきました。知るほどに、歴史的な背景や今を生きる私たちとの関わりなど、祭のもつ意味の大きさ、深さに驚かされたのです。
高津比咩神社は家族の中の娘。つまり、お姫様なのです。父君は、二宮神社の祭神、藤原時平公のこと。高津比咩神社にまつられている高津姫は、その娘と言われています。
東国に下った時平の子孫が久久田(習志野)の海岸に漂着し、二宮神社の神主になったという伝説がありますが、平安時代からかなり開けた土地であったことがうかがえます。
高津比咩神社の御神輿を守る花笠衆8名の衣裳は、そのお姫様を彷彿とさせるような華やかなもの。お祭りの見物衆からも・・・
「きれいねぇ~」
「一番、派手ね!!」
「お姫様ね!!」
と、ため息混じりの言葉が漏れていました。
さて、千葉氏ゆかりの祭礼「二宮神社式年大祭」。もともと桓武平氏の流れをくみ、鎌倉幕府の誕生に大きな役割を果たしたのが、千葉一族です。
この祭礼を始めた千葉康胤(やすたね)は、一族の中でも重役でした。その康胤の運命を変える事件が、この祭礼を始めた10年後にやってきます。
1455年、馬加(まくわり)城主であった康胤が、千葉宗家の千葉城主、胤直(たねなお)を討って宗家の座を奪ってしまうのです。
このことが、結局、康胤に不幸をもたらします。地方に後継争いの内乱が飛び火することを恐れた室町幕府が、康胤追討の命令を出してしまうのです。1年後、康胤は落命。千葉宗家は、幸いにも康胤の三男とも孫ともいわれる輔胤(すけたね)に受け継がれます。
輔胤は争いを嫌って、千葉宗家の本拠地を千葉城(亥鼻城)から、八街の本佐倉城に移します。以来、明治時代初期まで、本佐倉城、臼井城(佐倉市)、鹿島城(佐倉市)周辺が、下総の国の中心として発展することになったのです。
康胤、輔胤を始祖とする後期千葉氏の歴史は、現在、北総の地に生きる私たちにとっても、ゆかりの深いものであったことがわかります。